便利な日本

「ニュージーランドの高校に留学して3ヶ月。退屈で退屈で仕方ありません。田舎に住んでいるせいもあって、コンビにもないし、週末は店が閉まっているし、車に乗れないのでどこにもいけないし。携帯も日本語打てないし、テレビも面白くありません。何して過ごせばいいのでしょうか」

「日本では、毎晩のように飲み会があったし、週末は遊ぶところもたくさんありました。ワーホリで来て、あまりの不便さにビックリしてしまいました。こんな不便なところで
よくみんな生活しているなと思います。」

日本の、特に都会で暮らしていた者にとって、海外での生活がとても不便に感じることがあります。

「日本では、歩いて5分のところにコンビニが24時間開いていて、ATMもあるし、何でも買えるし、いろんな支払いもできる。当たり前のように使っていたけれど、いざ海外に来て、それがなくなってみて初めてそのありがたさがわかった。」という人も多いと思います。

確かに日本は便利です。特にニュージーランドと比べると、はるかに便利です。夜遅くまで店は開いているし、週末に出かけるところもたくさんあるし、交通機関は発達しているし、おいしいものが安く食べられるし、お金さえあれば欲しいものはほとんど手に入るし、時間をつぶす場所やモノがたくさんあります。

宅配便は指定通りの時間に配達してくれるし、電化製品が故障したらすぐに直しに来てくれるし、3分おきに地下鉄はどんどんやってきます。

国によっては日本と同じくらい便利なところもたくさんあるでしょうが、他の国で暮らしていても、どこか日本より不便なところを感じることもあると思います。

その不便さゆえにその国が住みづらいと感じることもあります。それが強くなると、その不便さに耐えられなくなって日本に帰りたいと思うこともあるでしょう。

でも、「便利」というのはそれほど大事なことなのでしょうか。「便利=いいこと」で「不便=悪いこと」なのでしょうか。

「便利さ」を求める気持ちはわかります。もっと便利に、と思うのは当然ですし、そこに技術の進歩があり、サービスの向上があり、合理化や発達があります。

でも、多くの人が便利さを求める場所でずっと暮らしていくとなると、自分もそこで働いて食べていかなければなりません。そして、その自分の仕事の結果に対しても「便利さ」を要求されるのです。

例えば、コンビにで働くのであれば24時間開いていることを要求されるし、宅配便の仕事をするのであれば時間通りに配達することを求められるし、地下鉄の運転手であれば、3分おきにきっちり駅に到着することを求められるのです。

コンビニで働きながら、夜のシフトは絶対に入れないということはできないです。

つまり、便利さを追求する社会の中で、その便利さを享受するためには与える人が必要で、与える人は自分自身でもあるということです。全てに便利さを求めていくのであれば、その中で働いている自分自身も誰かに対して便利さを供給しなければならないのです。そして、もっと便利に、と更なる便利さを求めていくということは、自分の仕事の結果にもそれがさらに求められるということです。

その便利さを求め続けることが何をもたらすかというと、享受できる便利さが増えるだけではなく、より便利なものを誰かに与えるための仕事が増え続けるということです。

ある人はそれをビジネスチャンスというでしょう。でも、「便利さの追求」をビジネスチャンスにして自分の利益に還元できる人はそう多くありません。たいていの人は、仕事の量が増えたり、仕事に要求されることが多くなったりします。

そうやって、みんなで便利さを追い求めていくことで、技術の進歩があり、サービスの向上があり、合理化や発達がある反面、便利さを生み出す側への負担が増えていくのです。便利さを生み出す側は、ほぼイコール便利さを享受する側でもあります。つまり、自分自身なのです。

便利がいいなと思う。便利さを自分以外のものに要求する。結果、自分自身も誰かから便利さを要求される。という流れが出来上がっていくのです。そして、多くの人が便利さを要求するのをやめない限り、その流れは止まらないのです。

日本は今そういう流れの中にいるように思います。

それに対して、ニュージーランドは、便利さを日本ほど追求しないように感じます。その結果、日本より不便を感じるのですが、自分自身の仕事の結果に対しても便利さを次々と求められることはありません。そして、アフターファイブや週末は自分の時間や家族との時間に充てる、という選択が可能になります。

とはいえ、ニュージーランドの雑誌などを読んでいると、「Good Life」を手に入れるために収入を増やさなければならない。収入を増やすためにもっと働かなければならない、という図式がニュージーランドにも広がりつつあるようです。でも、そのライフスタイルの変化に警鐘を鳴らす人も多く、今後その流れが変わる可能性もあります。ニュージーランドはまだその段階です。

私は、ニュージーランドで暮らし始めた当時から、便利な日本とそうでないニュージーランド、どちらがいいのだろう。と考えていました。暮らしているうちに、どちらがいいかということより、なぜ違うのかを考えるようになりました。

そして、この記事を書くきっかけになったのは、2005年4月の末に起こったJR西日本の尼崎脱線事故です。

最初の報道では、運転手に非があるように報じられました。次にJR西日本という会社の問題だといわれました。でも、私は、JR西日本が「安全よりもダイア通りの正確な運行を優先」させたバックグラウンドには、われわれお客の要求もあったのではないかと思うのです。より早く正確な鉄道の運行。それを優先させる鉄道会社にしてしまった原因の一部は、それを要求し続けたわれわれお客にもあるのではないか、ということです。

便利さの追求とそれに応えようとする会社。そして、会社から更なる仕事を要求される社員。そしてさらにまた便利さを追求するという流れが限界に来ていたのではないか。

これを機会にもう一度、「便利さの追求」自体をわれわれ一人ひとりが考え直してみる必要があるのではないか、と思ったのです。

留学をして海外で暮らすと、その国と日本との違いに気がつきます。特に、便利であるとか不便であるとかいう身の周りのことは直接自分の生活に関わってくることだけあって、その違いを強く感じます。

その時に、「ああ、日本は便利だ。いいなー。」と思うだけではなく、なぜそんなに便利なのか。なぜ便利でなければならないのか。便利さと引き換えに何を支払っているのだろうか。今住んでいる便利でない国はなぜそうなのか。そこに暮らす人々が便利さを求めていないのではないのか。それは何故か。便利さの代わりに何か別のものを享受しているのではないか。じゃあ私はこれから便利さを求め続けるのか。そもそも便利さって何なんだ。など、いろいろ考えてみてもいいのではないでしょうか。

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