自分と違うという事実
最近日本でにわかに、LGBTの話題が取り上げられているようだ。
ニュージーランドにいると、何故今急に日本でLGBTがメディアなどで取り上げられるようになってきているのか、よくわからない。また、LGBT以外にも、Diversity(ダイバーシティ)という意味では同じようなことがたくさんあると思うのだけれど、とりわけLGBTの話題が多いのも少し気になる。
でも、今まではほとんど話題に上らなかったり、真正面から取り上げられなかったりしたことが、時間を割いてマスメディアで取り上げられることは、とてもいいことだと思う。
以前からこのブログでも何度も書いてきたけれど、ニュージーランドは日本と比べると、人は一人一人違っていてあたりまえ、という前提で人々がコミュニケーションを取っているように思う。一人一人が違うのであれば、一人の個人が究極のDiversity ということもできる。
だから、まず全体があって、その全体が同じ個性を持つ集団で、その中で一部のマイノリティが存在する、と考えるのが日本の考え方だとすると、まず個人があって、その個人個人が違う個性を持っていて、同じ個性を持った人達が全体からみると割合が少ない場合にマイノリティと呼ばれるニュージーランドの考え方、という比較もできるかもしれない。簡単に言えば、まず同じ色を持つ全体からスタートするのか、まず異なる色を持つ個人からスタートするのかの違い、とも言える。
大切なことは、誰かが、何かが、「自分と違う」という事実を、ネガティブな感情に結びつけないようにすることだろう。同質の全体からスタートする日本は、「違い」という事実をネガティブにとらえがちなように思うけれど、まずはそれを止めてみようということだ。
例えば、ラグビーの日本代表チームに、日本以外の国籍を持つ選手が入っているという事実がある。国籍が違う、という事実に対して、それが「悪いこと」だとか「アンフェア」だとか、何となく「納得できない」とか、ネガティブな感情に結びつけるのではなくて、国籍が違ってもいいじゃぁないか、と受け入れる。
また例えば、自分が簡単にできることをできない人がいたり、自分と見かけが異なる人がいたり、自分の生活と違う生活をしている人がいたりする。そんな事実に、「理解できない」とか「何となく嫌だ」とか、そんなネガティブな感情を結びつけずに、いろんな人がいてそれでいいんだ、と受け入れる。全てにおいて、違いをポジティブに受け入れる。
「違い」を目にした時には、そこからスタートするのがいいと思う。
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今年のこのブログは本日で終了です。来年は1月末頃からまたスタートする予定です。今年もこのブログをご覧頂き、ありがとうございました。
来年が皆様にとってすばらしい一年になることを祈っております。楽しいクリスマス、お正月をお過ごしください。
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