ルールについてまた考えてみた

先日のこのブログ「日本とNZのルールに対する態度の違い」で、日本とニュージーランドでのルールに対する態度は少し違うように思う、と書いた。

日本では、もちろんルールには従うけれど、「そうは言ってもこの場合は少しくらいはいいだろう」とややあいまいに解釈をすることもあるように思う。それに対してニュージーランドでは、日本よりもルールに書かれていることを一言一句きちんと読んで、細かい部分までそれに従おうとする人が多いように思う。

それらの違いはどこから来ているのか考えると、学校の校則が影響しているのかもしれないし、契約の概念の違いが影響しているのかもしれないと考えてみた。

例えば、学校の校則は、私達の時代もそうだったけれど、日本では今でも理不尽な校則がたくさん あるようだ。そしてそんな校則は生徒から変えることがほとんどできない。

だから、いくら理不尽だと思っていても、在籍している間はその校則に表面上は従わざるを得ない。

そうすると校則は、その内容ではなく、守ること自体が目的になってしまう。言い換えると、表面上みんなが校則を守っているように見えればそれでいい。

一方ニュージーランドでは、日本のような理不尽な校則はあまりないように思う。なぜならもし理不尽な校則があれば、生徒がそれを積極的に変えていこうとして、そして実際に変えることができるからだ。

ある部分だけでも自分たちが関与して作った校則であれば、その目的も内容も、そしてなぜそのような言葉で書かれているのかも理解できるから、守ろうとする。

また日本では、ビジネスにおいて、契約が最初に必ず書面できちんと交わされないことも多いようだ。口約束だけで進んで行く。何か問題が起った時には、その場で考えて対処する。お互いが守るべきルールが最初からあきらかにされていない。

それに対してニュージーランドでは、B to B であっても B to C であっても、ほとんどの場合、書面で契約が交わされる。そして何か問題が起こった時には、必ず契約書に戻って確認をする。簡単に言えば、契約書の内容がすべてだ。

こうやって比べてみると、校則にしても契約書にしても、それらを守ることが絶対とされているかどうか、あるいはそれらの内容を当事者が一定の手続きを経て変更できるかどうか、その二点が、ルールに対する両国の態度を決定する重要な要因であるように思う。

日本でもし学校の校則が絶対で、しかも生徒からその内容を変えることができるなら、あるいは社会の中で契約が今までよりも書面できちんとしたプロセスを経て交わされるようになれば、ルールに対する社会全体の考え方も変わってくるのではないだろうか。

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