不便でも

私が子どもの頃と比べると、世の中大きく変化した。

テレビはまだ白黒だったし、電話も全ての人が持っているわけではなかった。クーラーはもちろんなかったし、風呂場にシャワーなどなく、それどころかお湯も出なかったので、水を浴槽に入れて毎晩湧かして入っていた。コンビニエンスストアが出てくる時代はまだ後で、やっと大きなスーパーマーケットができつつある時代だった。うちの前はまだアスファルトで舗装されておらず、雨の後は大きな水たまりがたくさんできて、長靴でわざと水たまりに入りながら小学校まで通っていた。

今の子ども達から想像もできない生活をしていた。一言で言えば、「とても不便」だった。

でも、今から考えると、つまり今と比較すると「不便」だったけれど、当時は、それがあたりまえで、みんな同じ環境で生活をしていた。それから何十年の間に、世の中がどんどん変わり、「便利」になった。

それは人々が「不便」さを捨て、より「便利」になることを求めた結果だ。

では、今の子ども達は私が子どもの頃よりも、どう変化しているのだろうか。よく見ていても、「ここが大きく変わった」という部分は見当たらない。子どもはいつも時代も、とても長く感じるその日一日を生きているし、親の言うことを聞かなかったり、友達とけんかしたり、勉強をサボって遊びに行ったり、大人が想像できないことを想像したり、はっとするようなことを言ったり、元気で、無邪気で、そして日々成長している。

この何十年間で世の中はとても便利になったけれど、子ども達は本質的には変わらない。逆に、ある程度歳をとって、便利な道具やシステムに触れるようになった後、以前と違う大人に成長していくように思う。

だったら、いろんな「便利」な道具やシステムは、何のため、誰のためにあるのだろうか、と思う。そして、不便な世の中でも今の子ども達と変わりなく成長していた人間がたくさんいるのだから、今の子ども達も、「便利」を捨て「不便」の中に身を置いてみてもいいのではないか、と思う。

でも実際に子ども達から「便利」を取り去り「不便」の中に入れようとしても、うまくいかない。なぜなら、子ども達の環境を変えるためには、大人も同じように「不便」を選択しなければならないからだ。大人達が「便利」を追い求めている以上、子ども達だけに「不便」を与えるわけにはいかない。

ただ、子ども達だけにでも「不便」を体験させてみることはできるだろう。一定期間家族と離れて暮らし、その中でそれまでの「便利」な生活と違う暮らしをしてみる。そうすることで、また違ったことを感じることができるのではないだろうか。

「便利」な生活から「不便」な生活に移った子ども達が、何を感じ、何を学ぶのか。一度経験してみるのもいいと思う。

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