時間に追われている時には

ニュージーランドでは、時間がゆっくりと流れると言う。実際に暮らしてみるとそれを実感する。

でも、仕事によって、場合によっては、いくらニュージーランドにいても、時間に追われているように感じることもある。

時間というのは実際には目に見えないのに、何故そんなものに追われているように感じるのだろう。忙しい時には、振り向けばそこに「時間」がいて、「もっと早く、どんどん先に!」とせき立てているように感じる。でも実際には振り向いても何も見えないし、もちろんそこには何もない。

時間に追われていると感じるのは、何なのだろうか。例えば、自分の身の周りから全ての時計をなくしてしまったら、時間に追われなくなるのだろうか。そうとも思えない。

やはり時間は、自分の中に感覚としてあるのだろう。そして、忙しい時にはその感覚が刺激されて、自分の中から自分自身を急かすのだと思う。

だから、時間の感覚のない、あるいは未熟な、幼児や子どもは、時間にせき立てられることはないだろう。特にまだ時間の概念さえ持っていない幼児は、10分後も2日後も1年後も、なんのことだかわからない。だから、後ろから迫ってくるような時間にせき立てられる感覚に追われることはない。

そう考えてみると、時間に追われているように感じる時には、時間のメモリがとても狭いのだと思う。5分後の電車に乗るとか、1時間でこの仕事を仕上げるとか、目の前に時間の区切りが細かく迫っている。

逆に考えれば、時間に追われるように感じる時には、とりあえず時間の区切りを長くしてみるのがいい。一年後はどこでどんな仕事をしているだろうとか、10年経ったらこの電車には乗ってないだろうとか、ふと時間のメモリを変えてみる。そうすることで、たとえ一瞬でも、時間に追われる感覚を忘れられるのではないだろうか。

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