他人か自分か

人は誰でも、その時その時で判断し選択をしながら生きている。

そして小さなこと、例えば、時間が空いたときにどのスマホのアプリを最初にタップするかとか、外食時に目の前に並べられたおかずの何から食べるかとか、友達との会話で相手の言ったことにどう反応するかなどの判断と選択は、ほとんど無意識に行っている。

でも、立ち上げたアプリ、食べたおかず、反応した行動、を後からよく考えて見ると、判断と選択をした理由があることがわかる。つまり、意識的にせよ無意識にせよ、何かを判断し選択する時には、自分なりの一定の基準がある。

その基準はその人独自のもので、小さな時からそれまでの環境や教育で作られてきたものだと思う。だから、今までやこれからの環境や教育が変われば、無意識に行っている判断や選択も変わる。

先日のこのブログ、「日本の接客、NZの接客」でも書いたけれど、日本とニュージーランドでは接客が違っていて、それは、文化の違いや教育の違いが影響している。言い換えれば、接客する人の判断と選択の基準が、異なる接客を生んでいる。

日本とニュージーランドの人達の判断と選択の基準で、大きく異なるところの一つは、日本の人達の判断と選択の基準は、意識的にせよ無意識にせよ、他人が自分をどう見ているか、どう思っているかが基準になることが多いことだろう。つまり、自分の判断と選択の基準が他人にある。それに対してニュージーランドの人達の基準は、自分がどう感じ、どう考えるか、にあるように思う。自分の判断と選択の基準は自分自身だ。

環境や教育が変われば、判断や選択の基準が変わるのであれば、中学や高校の年齢の時に長期で留学をすれば、それらは明らかに変わる。だから、もし自分の判断と選択の基準が他人にあることよりも、自分自身にありたいと考えるのであれば、10代の時に長期でニュージーランドに留学をすることは、その後の人生に大きな意味を持つだろう。

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