ルールについて
私たちは留学生達に、留学中の様々な経験を通して「自分で考える態度」を身につけてほしい、と強く願っている。
様々な状況に置かれたとき、まずは自分で考えて、判断して、そして行動する。
たまにはその判断が間違うこともあるだろう。考えた結果うまく行かないこともあるだろう。でも、だからと言って、最初に自分で考えることを止める理由にはならない。判断が間違っても、結果がうまく行かなくても、自分でこう考えてこう判断したからこのように行動したのだ、と後で自分で言えることはとても大切だ。それができれば、自分が下した判断、自分がとった行動の結果を自分で受け止めることができるし、判断が間違っていたり、結果がうまく行かなかったりしても、次はうまく行くことができるかもしれない。
そして私たちも、留学生達の行動を見ながら、「彼等彼女等は、どう考えて、どう判断して、そのような行動を取っているのだろうか。」ということを考える。そこから、留学生それぞれの置かれている状況、感じていること、などがわかることもある。もちろん、留学生達それぞれと話もするし、高校留学生であれば親御さんとも連絡を取り、ご意見をうかがうこともある。そして、もし留学生達の考えや判断や行動に問題があれば、次からはどう考えればいいのかを一緒に考えるようにしたいと思っている。
だから、私たちは留学生達に細かいルールを少ししか定めてはいない。なぜなら、ルールを定めたら、留学生達はそのルールに書かれていることを読んで、それだけを基準に判断して行動をすると思うからだ。
例えば弊社では、高校留学生を対象として、「自動車への同乗および自動車の運転について」のルールを明文化しているが、一度ルールを明文化してしまうと、「ルールに書いてあることさえ守ればいい」「ルールに書いていないのでやってもいい」と判断して行動する人が出てくる。あるいは、「ルールに書いてあるけれどどうしてもやりたいので黙ってやろう。」という人も出てくるかもしれない。自動車に乗るという状況に置かれたときに、「自分で考えて判断する」のではなく、「ルールに定められているかどうか」だけを見てしまう。つまり、ルールを定めることで、自分で考えるという態度を身につけることが難しくなる可能性がある。
極端な例をあげる。内容は全て架空のことだ。例えば仮に、自動車の仮免許しか持っていない高校留学生が、夜中にホストファザーの運転で自宅に向かっているとき、突然ホストファザーがお腹が痛い、と激しく苦しみだして車を路肩に停めたとする。自宅までは後15分だ。ホストファザーは運転できる様子では全くない。しかも携帯電話は圏外で通じない。ニュージーランドでは仮免許では夜に運転をすることはできないし、弊社のルールでも運転は許されていない。さあ、どう考えて、どう判断して、どう行動するのか。
ルールだけを見て判断すれば、高校留学生が仮免許で運転して自宅に戻る、あるいは携帯電話が通じるところまで運転することはできない。だから、そこで待つか、一人で歩くか、その場で助けを求めるかしか選択肢はないだろう。でもホストファザーは死にそうに苦しんでいて一刻を争うし、一人で歩くには街は遠いし、夜なので走っている車も少ないし、夜中のヒッチハイクは危険だ。
そうなると、判断を下すためにはルール以外のことを考えなければならない。でも、普段からルールだけを基準に判断して行動していると、ルールは横に置いておいて自分で一から考えて、判断して、行動する、ということがなかなかできないだろう。
ルールはある意味とても便利だ。ルールを守る人達は、自分で考えなくてもルールに書かれてあることだけを見て判断すればいい。ルールを定める人達も、「ルールだから」という一言で他人の行動を管理できる。
でも、ルールは一旦定めると、必ず内容が細かく増えていく。何故なら、ルールに定められているかどうかだけが判断と行動の基準となるからだ。でも、どんどん細かく増えていくルールにばかりとらわれていると、自分で考えて、判断して、行動する、という態度は身につかない。
だから、極端な話、ルールなんだけれど、この状況ではこう考えて、こう判断して、ルールに定められていない行動をとる、という必要も出てくる。自分で考える、というのは、定められたルールも含めて全てを考える、ということだ。
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